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荘周(荘子)の言葉

加島祥造氏による「荘子 ヒア・ナウ」PARCO出版からもう少し抜粋。


タオはどこにある

「タオとか、道とか、いいますけれど 
いったいそれは、どこにあるんですか?」
と、東郭子が荘子にきいたこときの話だ。
「タオはどこにも、いたる所にある」
と、荘子が答えた。
「そうでしょうけれど、どこへ行ったら見つかるか、
もうちょっと、くわしく教えてください」
荘子は答えるー
「タオはオケラやアリの中にあるのさ」
「何とまあ、そんな小さなものにあるんですかー」
すると荘子はこう言う。
「タオは、粟や麦の種にあるのさ」
東郭子は叫んだ。
「ますます小さなものの中にあるというわけですね」
「タオは、瓦や壁土の中にもある」
「そりゃあ、ますます悪くなりますね。
そんなつまらないところにあるなんて」
「タオはな、小便や糞の中にあるのさ」
東郭子は口をつぐんで、もう質問しなかった。
すると荘子はこう言った。
「お前の尋ねたことはな、本当は、なかなか返事のむずかしいことなんだ。
タオはどこそこにあると言おうにも、どこにだってあるんだから、
答えようがないのさ。」
「たとえば市場で豚を買おうとするとき、
いちばん太った豚を見分けるのに、足をみるだろう?
それと同じさ。
タオは、宇宙だ混沌だ天空だと大仰な言葉を使うからわからなくなる。
ものの本当の真実はな、もののいちばん下に、あるものだよ。
だからこそ、偉大な教えと言えるんだがー」



すべてのもとは、ひとつ

すべてのことは「これ」だとも言えるし、「あれ」だとも言える。
ひとりの人が「これ」と見ても、他の人は「あれ」と見る。
人というものは、自分が知っているところから物を判断する、
そして自分の知ったところから「あれだ」とか、「いや、これだ」と言う。
だがね、本当は「あれ」でもあるし、「これ」でもあるんだよ。
そこから分かれて出てきただけなんだ。

命は死から出てきたし、やがて死んでいくものだ。
だから同じことなんだ。
何かを指して、これは悪いといっても、
それはね、こっちが正しいとするからそっちを悪いとするだけなんだ。
だから、本当に賢明な人はこういう区別を超えた、
遠くて高い所から、ものごとを見ようとする。
彼はね、「これ」と言ったときには、
もうひとつの「あれ」のほうも見ている、
そして、「あれ」が、「これ」であるってことを知っている。
すなわち、ひとつのものには、
正しいと間違いの両方が含まれているんだよ。

このように、「これ」とか「あれ」とかいう区別を超えた場所に
タオで言う「静かな一点」があるんだ。
この「静かな一点」は、
すべてのものの中心軸ータオの核ーなんだよ。
この中心軸が君の中にぴたっと据わると、
「正しい」も「間違い」もなめらかに回転する。
正しいと間違いとを超えた向こうの、「あの光」を見ている。
それが、本当の智慧というものなんだ。

右とか左とか、善とか悪とか、
そういう区別があったとしても、そのふたつは、やがては一緒になる。
そして溶け合う。
すべてのものは、いつか、ひとつになる。
本当に見える人は、
「すべてはひとつ」という原理をよく見つめた人なんだよ。
その人には区別なんかしても役に立たない。
いつも、区別を超えた場所にいるんだ。
そして、区別を超えていて、いつも変わらないということは、
生きる上でとても大切なんだ。
それは、本当の自分の性質にかえる、ということだよ。
自分の本当の性質の中にいるとき、人は幸福なんだ。
幸福に至ったとき、まあ、完全に生きていると言える。
これが、タオさ。
by chandra-k | 2007-08-11 00:30
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