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こだわり、枠、豊かさ。

こだわり、枠、豊かさについてここしばらく考えていた。

先月の私のセミナーでも少し話したが、何ヶ月か前の話。
夫とハンバーグレストランに行くと そこではビートルズが流れていた。
その店のBGMはいつもそうなのだが、ある時夫が
「来る度に年代がぐちゃぐちゃなビートルズを聴いていると気持ちが悪くなる。」と言った。
要するに初期の曲の後に後期の曲が流れたりするのが耐えられないという。
「LOVE ME DOの後にGET BACKが流れたら気持ち悪いだろう?」と夫。
「いや、全然。」
「店の人にどうにかしてくれって言ってくるかな。」と言うので
「そんなの誰にも理解出来ないから! ただの変な人になるからやめてよ!」と私。
(そんなにイヤなら店に行くなって話だけど。笑)

その時は「ふーん」と聞き流した私だけど、ある時その理由を知ろうと詳しく訊いてみた。
「ありえない話だけど、もしもビートルズがライブで初期の曲と後期の曲を
混ぜて演ったとしたらそれは平気なの?」
「それは平気」
「じゃあ他のバンドの曲が年代ぐちゃぐちゃに並ぶのはどお?」
「それも平気」
「色んなバンドの曲がオムニバスで流れるのは?」
「それも」

色々質問した結果わかったことは・・・・。
実は私より波動に敏感な夫はエネルギーに反応していたのだった。
ビートルズはメンバーチェンジ無しで、短期間に音楽的にも精神的にも
激しい変化を遂げたバンドであり、曲によってものすごく違うエネルギーが入っている。
しかも同じメンバーで作られているため 「同じなのに違う」ものがぐちゃぐちゃに
混じっている状態が夫にとってはなんとも気持ち悪かったようなのだ。
それに対しメンバーチェンジをしているバンドや、別バンドは
全く別のエネルギーとして認識出来るので平気であり、
同じメンバーであっても音楽性・志向性があまり変化のないバンドは違和感がないよう。
そしてライブで年代がぐちゃぐちゃの楽曲を演奏しても
それはその時のメンバーのエネルギーに転換されているので平気だというのだ。

私にはその感覚はさっぱりわからない。
今はどうかわからないけど、以前珠ちゃんが竹など自然の材料で作られた笛と
エンビ管で作られた笛を同時に吹かれると ピッチの違いや波動の違いで
頭が痛くなると言っていたのを思い出した。
さらに絶対音感の持ち主はあらゆる音が音符で聞こえるので
生活音が不協和音に聞こえると気持ちが悪いという話や、
知り合いのエンジニアはものすごく耳が良いので ちょっとのチューニングの狂いや
ノイズがとても気になるという話も思い出した。

何かの能力に優れているとか、ものすごく微細なものまで感じ取れるということは
ものすごく素晴らしい突出した才能であると同時に
ともすると自分を縛ることにもなりやすい。
特に自分が好きなことであればあるほど こだわりが縛りにもなりやすい。
その縛りがなかったらいくらでも豊かな世界を味わえる無限の可能性があるということでもある。

何かを表現するときにこだわりがあった方が方向性を設定しやすいし
より深いかたちで提示しやすいというのはあるけれど
それがルールや執着になってしまうと 自分で自分の自由性を制限してしまう。

私の場合も色々枠があったけどかなりはずれてきた。
以前は自分の番組は洋楽専門番組だから洋楽しかオンエアしないと思っていたけど
本筋を変えなければそれにこだわらなくてもいいと今は思ってるし、
音楽番組だから音楽の話をするっていう枠もなくなってしまった。
又以前は何か含蓄のあるためになる話をしようなんてかまえていたこともあった。
たまに波動の話を番組でするけど、それだってかまえて波動の話だけに特化する必要も
ないと今では思ってるので、
「私が話せば何の話でも波動は伝わるしぃ~」位のけっこう軽いノリで番組を作っている。

このブログにしても最初は波動の話以外は書かないと思っていたけど
それもおかしな話だと思ってあまり気にしなくなった。

ただ言葉に関してはちょっと敏感。
日常会話では私も相当雑に喋っているのし、まわりの人の言葉も気にならないのだけれど、放送番組のナレーションやCMに関してはとても気になってしまう。
(タレントの言葉遣いは全く気にならないけど)
例えばナレーションで「第3回目」と言われると、内容以前にそっちに気が行ってしまう。
(第と目は同じ意味なので、本来は第3回か3回目が正しい。
最近は民放のドキュメンタリーで「第3回目」等と平気でナレーションをしているのが
けっこうあって、聞いててうわぁーと叫びたくなる。)
あとCMで「全然簡単ですよ!」とか言われると「全然の後には否定形!」と言いたくなるし。
イチロー選手が「WBCに出られるということは」と正しい日本語を使ったのに
テロップに「出れるということは」と書かれた日には ギャー!となる。
「投げれる(本当は投げられる)」「食べれる(食べられる)」等
最近「ら抜き言葉」が増えてるし、敬語もぐちゃぐちゃなのはわかるけど、
それをニュースやドキュメンタリー、CMで使われるとものすごーく気になる。

言葉は変化するものだし、今使われている言葉がスタンダードになるかもしれない。
舌鼓(したつづみ)が現在は「したづつみ」でもOKであるように
言葉は言いやすいかたちに変化し、意味も変わってゆく。
いずれ誰もが波動をわかるようになったら言葉はなくなるだろうし。
言葉は生き物だから日常でみんなが使ったりするのは平気なんだけどなぁ。

先日FMの人とたまたま話していた時、3年程前その方が局で電話を受けたら
一般聴取者からのもので「ロックンロール黄金時代のDJの方はきれいな日本語を話しますね」というお褒めの言葉だったと言われた。
聴取者から電話が来るといえばクレームが殆どなので、
そんな風に褒められるというのはとても珍しいとも。
確かに、普通わざわざ電話なんかしないだろうな。
その話は私には初耳だったし、私は番組ではけっこう雑に喋っているので驚いたし嬉しくもあった。

以前私はロック番組だからとわざとかなりくだけた言葉で話していた。
「~スよね。~じゃないスか」みたいに。わざとロックっぽい言葉を使ったぐらいにして。
でも今はなんだかそれも作ってる感じがして、ただ普通に話している。

言葉にひっかかりやすい私ではあったけど、それも気にせず、とらわれず、縛られず、
それでいてせっかく美しい日本語を話せるならそれを豊かさとして
楽しみながら自在に使っていけばいいのだなぁなどと最近は思っている。
by chandra-k | 2009-07-10 01:34
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